ほぼ毎年のように、『自分で勉強する時間がないから、(受講している)授業を減らしたい』と言ってくる塾生がいます。また、何年かに1回は『自分で基礎を固めたいから、退塾したい』と言ってくる塾生もいます。
私は翻意するように説得します。もちろん、経営者としての立場もありますが、それ以上に、大学受験に携わって40有余年、そのような考え方をして成功した例を一例も見たことがないからです。それがなぜなのかを、ご説明したいと思います。
自己学習と授業との関係
予備校によっては、有名実力講師の授業を聞くだけで成績が上がるとか、逆に授業はムダで聞く意味がないとか宣伝します。
しかし、少し考えてみればどちらもおかしいとわかります。極端な考え方には、必ず落とし穴があるのです。
授業と自己学習は、「車の両輪」と考えるのがバランスの取れた見方ではないでしょうか。ただし、これには、教える教師にやる気と学力があり、受験に精通しているという重要な前提があります。教える気も力もない教師の授業を受けても無意味です。
生徒が授業を捨て、自己学習に走る訳
ほとんどの場合、授業について来られないからです。
なんとかついて行こうというやる気、勇気を出せないからです。
自己学習であれば、自分が好きで、比較的得意な科目、場合によっては得意な単元だけを勉強でき、劣等感を感じないですみます。要するに、自己学習の殻にこもるのは、基本的には現実逃避と言えます。授業から逃げる生徒は模擬試験からも逃げます。今の自分の学力を正面から見つめる勇気がないのです。それでいて、自分を支える必要はありますから、ぬくぬくとした自己学習の世界へ逃げ込むわけです。
もちろん、勉強するだけいいじゃないかという反論があるでしょうが、私はある程度優秀な、具体的にはMARCH以上の大学を目指す生徒の話をしていることをお断りしておきます。
自己学習の限界
塾の授業を受けずに自己学習をするとなると、参考書や問題集を使うことになりますが、ここに問題があります。解説の詳しくない問題集はもちろん、どんなによくできた参考書でも、わかりやすさという点からは授業にはかないません。
私が書いた『減点されない英作文』は20年に渡り毎年増刷を重ね、難関大学受験者の間では高い評価を受けています。それでも、私の授業の方がはるかにわかりやすいのです。本人が言うのですから、間違いありません。
参考書は紙面の制約がありますし、授業のように生徒の反応を見て、その場その場で説明を加えることもできません。どんなに筆力があっても、活字での解説には限界がある気がします。それに、授業ですと、わからないことがあればすぐに質問できますしね。
私の英作文の授業では、生徒に予習してきた英文を白板に書かせ、私が1つ1つ添削し、私の参考書を見ながら、参考書に書かれたことを説明します。自分1人で私の参考書を自己学習するのに比べ、どれほどわかりやすいかがご理解いただけると思います。
言うまでもなく、勉強は自分でするものです。ただ、大学受験は限られた時間の中で、一定のレベルまで達することを求められます。そして、授業の予習をして、適切な解説を聞き、復習するのが最もムダのない学習方法なのですから、授業を受けないという手はありません。
実力に合ったことをいくらやっても成績は伸びない
「自分の学力に合った授業」、というものが評価される節がありますが、今の力では少々手に負えないレベルのものにチャレンジしない限り、実力は伸びません。
たとえば、ウエートトレーニングで50キロのバーベルをすいすい持ち上げても、100キロのバーベルを持ち上げられるようにはなりません。やはり、70キロのバーベルに挑戦し、持ち上がらず挫折し、それでも何度も何度もチャレンジし、何とか持ち上げる。次に80キロ、90キロと挑戦を続けていって、ようやく100キロに届くのです。志望大学に合格するのに100キロのバーベルを持ち上げる必要があるのなら、逃げてはいけません。
自己学習では自分の力を超えたものには手を出しませんから、勉強はしているという自己満足だけで、実力は伸びません。
「自分の実力に合った勉強」。耳ざわりのいい言葉ですが、意味はないです。受験勉強に無理はつきものだと覚悟してください。
今後少子化がますます進み、一部の難関大学を除き、大学入試は年々簡単になります。
あまり頑張らなくても、たいていの大学に入れるようになるのです。
しかし、たいした努力もしないで入学できる大学を、社会が評価するかどうかを、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。
最後に、これまでのお話は、ご家庭に進学塾の授業料を負担する余裕があるとの前提に基づいています。
河村 一誠